とある日の晩御飯。たったこれだけ、とかいわれそうだがジムで走る前はこれでも多いと思う。ボルシチもゴッホも、玉ねぎおしのスープだったことに気が付く。でも花粉症の季節ではトマトを食べると少し調子を屑ことがあるので、トマトベースのスープはいただけないことが多い。
そうするとこんな感じになるのだが、ゴッホの玉ねぎ・・・なんかさびしいなぁとか思いながら食べると玉ねぎの味がさびしい気がしてくる。東京ボルシチを食べる時は気を付けるが、なぜかシベリア抑留とかの印象と重ね合わせてしまい、あったかいものが食べたかったなあぁとか勝手な妄想をしてしまう。スープがなくなるとそれぞれの妄想は終わる。
一人で食べるご飯というのは意外と難しいと改めて思う。食べる時、食べ物自体に集中したり、同席した人との対話だったり、ついているテレビなどもある。それぞれ突き詰めていくと、一つの要素に依存するのはあまり長くいられない気がし、最終的に何に気を取られて食べたらよいのかよくわからなくなってくる。食べるものを選ぶのが面倒臭くなると、なおさらマンネリの悪循環のように感じられる。